「私の好きなモノそして人」~テレビドラマって観ますか?~VOL.15「ドラマを観ない時代」
1983年を境に、そこから約10年くらい私はテレビというものをあまり観なくなりました。
社会人になり生活環境がガラリと変わって行ったことが大きな原因だと思いますが、もしかすると83年に出尽くした感があって、ドラマ全体のボルテージが下がっていたのかも知れません。
兎に角、あれほど好きだったドラマをあまり観なくなったのです。
兎に角、あれほど好きだったドラマをあまり観なくなったのです。
従って、本当に僅かなものを除いてはテレビドラマの記憶が正直あまりないのです。
1984年のオリンピックイヤー、オリンピックはロサンゼルスで開催されました。
そして、遂にMacintoshが発売されたのもこの年です。
そして、遂にMacintoshが発売されたのもこの年です。
日本では新札が発行され、一万円が福沢諭吉、5千円が新渡戸稲造、千円が夏目漱石となったことは私たちの世代にはかなり新鮮な事であったと思います。
物心が付いたときには、一万円と5千円が聖徳太子、千円が伊藤博文、5百円が岩倉具視、そしてそのちょっと前まで流通していた百円札は板垣退助、その前は聖徳太子でありました。
生まれてからそれまでのお札はずっとそれでしたので、かなり違和感があったと記憶しています。これは恐らくですが、物心付いた孤児が初めて里親に会った時くらいの違和感であったのではなかと思います。
そしてグリコ森永事件という前例のない毒物混入で大企業を脅す事件が起きたのもこの84年でした。最後まで訳の分からない謎の多い事件でした。
「狐目の男」
誰だったのでしょう???
84年のドラマはというと、スクールウォーズなんかがあったようですが、観ていなかったので何とも言えません。
日本の音楽では、安全地帯やチェッカーズ、中森明菜、おニャン子クラブなんかがヒットしておりました。
洋楽では、何と言ってもWAMの「LAST CHRISTMAS」でした。
映画では『ゴーストバスターズ』が大ヒット!レイ・パーカー・ジュニアの歌うテーマソングも大ヒットしましたね。
85年には
「毎度お騒がせします」中山美穂主演
が高視聴率を叩き出していたみたいですが、私は観ていません。
そして、83年からスタートした
「金曜日の妻たちへⅢ」~恋に落ちて~
も85年でした。3匹目のドジョウです。ですが主題歌の「恋に落ちてーFALL IN LOVE-」の大ヒットも手伝い、これは観ていました。
舞台を小田急線から田園都市線に戻し、つくし野周辺での物語の展開となりましたが、つくし野をオシャレタウンにする力はもう「金妻」にはありませんでした。
奥田瑛二のエッチさが何とも印象的です。
申し訳ないのですが、小林明子の歌、奥田・板東のダブルエイジ(笑)以外ほとんど覚えていません。
85年と言えばアフリカの飢餓と貧困を救うためのキャンペーンソング「WE ARE THE WORLD」がマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーの共作で作られ、クインシー・ジョーンズプロデュースの基、沢山のビッグアーティストの参加で話題を呼びました。
私は、ブルース・スプリングスティーンの「We Are The World!!!」のシャウトが好きでした。
85年夏、日本では日航機墜落事故が発生しました。
群馬県御巣鷹尾根に日航機が墜落し、524名の搭乗者中520名のという多くの命が奪われる大変悲惨な事故でありました。
その中には、あの坂本九さんの名前もありました。
4名の方が救出されました。全員女性でした。
その中の一人である小さな女の子の救出シーンはテレビ報道でも何度も何度も流れ,一縷の救いを皆がその映像に求めたのでした。
生き残った方々のその後の人生は?
そんな事を、ふと考えたりします。
4名のそれぞれがおありだと思います。物語の様に考えてしまうのは大変不謹慎ですが、想像を超える精神的、肉体的なショックを経験され、生還という奇跡的な生という運命とどう付き合っていかれたのか、もしかして乗り越えられるものではないかも知れませんが、それをどう乗り越えて来られたのか、それぞれのお話を聞いてみたくも思うのです。
命、人、生きるという事、大切たことなどについて、平平凡凡に生きてきた私には分かり得ない大切なことを、聞いてみたく思うのです。
そして、1986年になりやっと私の見ていたドラマの登場です。
『男女7人夏物語』出演:明石家さんま・大竹しのぶ・賀来千香子・池上季実子・片岡鶴太郎・奥田瑛二・小川みどり
脚本:鎌田敏夫
これもTBSの金ドラです。
1981年に東京進出MCの恐らく第一弾であったテレビ東京の『サタデーナイトショー』という深夜のお色気番組の司会で、東京でもコアな人気を集め始めさんまちゃんは、大阪では『ヤングおー!おー!』で大活躍でしたがまだ全国区ではなく、80年に始まった『笑ってる場合ですよ』に途中からレギュラーに、81年には『俺たちひょうきん族』で大ブレイク、85年に始まった『さんまのまんま』(フジテレビ系)で一躍全国区となり、『男女7人』で年齢の枠を超えたスーパースターになったのです。
少し話はそれますが、80年代は大お笑いブームの年代でもありました。
私の記憶では、ルパン三世の声優でお馴染みの山田康夫さん(高校の先輩なのでさん付けです)司会の『お笑いスター誕生』(日本テレビ)でB&Bがブレイクしたことから始まったように思います。
B&Bのそれまでになかったスピード感溢れる今までの漫才にない面白さは、世の中を席巻しました。当時私も夢中で例の「もみじ饅頭ー!」を楽しみに観ていました。
ほぼ同時期にフジテレビが『THE MANZAI』、そして昼番組に『笑っていいとも』の前進であります『笑ってる場合ですよ!』を持ち込んである種革命的なことをやってのけました。ブレイクのきっかけは日本テレビでしたが、お笑いブームを不動のものにしたのはフジテレビでした。極めつけは『俺たちひょうきん族』です。
それまでの、フジテレビはこれと言って特徴がなく、日本テレビとTBSに少し水を空けられていましたが、ここからフジテレビ時代に入ります。
女子アナブームもフジテレビでした。お笑い番組に綺麗な女子アナを使い、それまでのアナウンサーとは全く違う一種タレント的な扱いで、彼女たちの対応、立ち振る舞いもそれまでのアナウンサーという枠を大きく超えて、パーソナルな魅力を出すようになり、そのようなことを良しとする環境をフジテレビが作りました。
お笑い、女子アナこの2本立てでフジテレビ時代が出来上がった気がします。
それもこれも、横澤彪という名プロデューサーの大きな功績なのだと思います。
世の中には時代を変えてしまう凄い人が居るのですね!
テレビをあまり観なくなっていた当時の私を、テレビにつなぎ留めてくれたのは広義ではお笑い番組でしたが、核となったのはさんまちゃんでした。
私は無類の明石家さんまファンの為、ここではさんまちゃんと呼ばせて頂きます。
80年代中盤には、それまで出揃った様々な価値観、モノ、指向性にある種飽和状態が訪れており、一億総中流でバブルを享受してはいたものの、なにかに踊らされていた感は否めませんでした。
そこに登場したお笑いという武器を持ったデストロイヤーたちが、カッコイイという概念をひっくり返してくれたような気がしてなりません。
ビートたけし、タモリ、伸介、B&B、紳助たちが、浮かれた時代を笑いで一蹴してくれたのです。
「何カッコつけてんだよ!」
まさにそこです!
既存の「権威」に対する真っ向勝負を彼らは怯むことなくやり遂げているからこそ、極めて本質的だと私は思います。
築き上げたものにしがみ付きたくなるのが当たり前ですし、権益をつかみ取る為に努力しその掴んだ既得権益の権威をかざしてしがみ付くのが人の性というものですが、彼らはそれを何処かでせせら笑って、笑いという極めて人間的な武器で、身を挺して本質を抉りだしている様に思うのです。
特にさんまちゃんは、権威を振りかざす連中に真っ向から対決姿勢を取ります。
番組の行方より、そっちを取ることがあります。笑顔の敵に対しては一歩も引かないところが、僕が彼を好きな理由の一つです。
このことは、ドラマについて書き終わってから、「私の好きなモノそして人」の人編に入ってからじっくり書きたいと思っていますので、ここではこれくらいにしておきます。
何しろ、関西弁でトレンドドラマの主役をやり切った人はそれまでいませんでした。
全国区ドラマはそれまで標準語が当たり前で、ましてや東京を舞台にしたドラマなのでそこに関西弁の主人公が登場することなどありませんでした。
この時点で、何かをぶっ壊しています。
さんまちゃんが登場するまでの東京では、極端に言えば「関西弁=お笑い」という程度しか関西弁の認知度はありませんでした。今では考えられないことですが。
とある日、夜の通勤ラッシュの中にいた私は、こんなシーンんに出会いました。
超満員の中での話です。
「今日も混んでるなー」
そんな事を思いながら乗っていた田園都市線の二子玉川の少し手前だったと思います。
満員電車内で突然
「なんやこらー!!!」
そう叫び声が車両に響きました。
一瞬電車の中では喧嘩が始まるのかと不穏な空気が漂います。ほんの一呼吸おいて、どこからか囁くような声が聞こえました。
「関西弁、、、」
それを聞いた私は、
「えー!そこー!???」
そう思っていると、また違う誰かが
「関西弁、、、、」
あれよあれよという間にまるで波紋の様に
「関西弁、、、、」「関西弁、、、、」「関西弁、、、」と
その囁きは車両中に広がって行きました。
もう笑うのをこらえるのが大変です。
「関西弁、、、、」の輪唱の効力は絶大で
「なんやコラー!!!」
と叫んだ本人はそれ以上何も発することが出来なくなり、その場はその囁きによって救われたのでした。
「そんなバカな!?」
そうお思いでしょうが、当時の東京では関西弁はそんな感じだったのです。
ある意味、大阪の人の方言でしょ!?くらいの認識であった大阪弁に東京での認識と認知をもたらしたのは間違いなくさんまちゃんです。
私は、小さいころから『てなもんや三度笠』の大ファンであったことがあったり、大学時代に関西弁を使う親しい友人もいましたし、就職した会社が神戸本社の会社だったりしたので、関西弁に何の抵抗もなく、むしろ好きな表現でありました。
発想そのものが、東京人とは違うと思われる言い回しなどもあります。
代表的なのは
「~違う?」という英語で言う「don't you?」的な表現です。
東京弁で言えば、「~でしょ?」ですがこれはどこまでも自己中心的な押し付け感のある言い回しですが、「~違う?」は相手の意思を尊重している聴き方です。
多くのニュアンスで、関西弁には相手を尊重する、もしくは自らを遜る言い回しがあります。
言葉は考え方ですので、こんなニュアンスの違いはちょっと大きな違いであると常々感じております。
まー、私が好きかどうかは別として、東京における関西弁に完全なる市民権を与えたのは、間違いなくさんまちゃんです。
『男女7人夏物語』は毎週欠かさず見てはいましたが、実は内容的なものは殆ど覚えていません。
大ヒットドラマだったのですが、主題歌の「ショー・ミー」と「さんまちゃんと大竹しのぶが共演して結婚したドラマ」という以外には、特に感ずるところはなかった様です。
まー大スター明石家さんまが不動のものになったというドラマだと思っています。
ちょっと偉そうで偏屈な見方ですので、申し訳ない。
そんな訳で、80年代中盤は殆どドラマを観ずに過ごしました。
この後、田村正和主演の「パパはニュースキャスター」、ダブル浅野が主演の「抱きしめたい!」には嵌ってしまいました。
そのお話は次回に!
~つづく~
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