私の好きなモノそして人~テレビドラマって観ますか?~VOL.13番外編「80年代という時代について」
優秀なテレビドラマの多くは世の中を徹底的にリサーチした形で制作されますので、一度1980年代の時代背景をおさらいしておきたいと思います。
1980年代序盤日本はバブルへの入口、そして中盤から後半はその真っ只中に突入して行きました。
80年にはポカリスエットが発売になり、水に近いモノを買うという習慣がなかった日本人には酷く新鮮であるとともに、水みたいなものをコーラと同じ値段で買うという事の戸惑いがありました。
しかし、時代をリードするオシャレ派の人たちには人気があり当時流行っていたテニスサークルなどで徐々に人気が出て来て、ポカリスエットを買うことがちょっとオシャレな感じになりました。今考えると不思議なのですが、そうだったのですから仕方がありません。
そしてファッションに於いては、70年代にお洒落な若者たちから支持を得た所謂DCブランドブームが到来します。
「コム・デ・ギャルソン」「ヨージ・ヤマモト」「イッセー・ミヤケ」などの『モードまっしぐらタイプ』、「BIGI」「Y's」「メンズ・バツ」「JUN」「renoma」「アルファキュービック」などの『もてたいタイプ』などが存在し、多くのブランドが、原宿、表参道を中心に大ヒットしました。
これより若干先んじて、「グッチ」「ルイ・ヴィトン」「シャネル」などの高級バッグやセカンドバッグ(その当時は男性も挙って持ち歩きました)を学生から大人までが持ち歩くという飛んでもないことが始まっていました。勿論「アルマーニ」「エルメス」などの超高級ファッションも空前のヒットであったのですが、それはあまりに高すぎて、マジョリティーとはなっていなかったように思います。
当時、女子学生や若いOL達でそれらの「グッチ」「ヴィトン」のバッグやお財布を1つは持っているのが当たり前になっていたのです。
ヴィトンに手の届かない学生の間では「renoma」のバッグだったような気がします。
かく言う私も学生の分際で、当時の彼女(今の奥さん)の誕生日にはヴィトンの財布やセカンドバッグ、流行歌になったルビーの指輪などをプレゼントしたりしていましたが、それが特別な事ではなかったのです。
日本人観光客は、ヨーロッパのブランドショップに今の中国人観光客の様に群がり、世界から下品だと批判を受けていたのを思い出します。
中国人観光客についてあれこれ言われますが、40年前の日本人も全く同じだったのです。
(まあ、何しろ日本の地価は留まるところを知らない高騰を続け、遂には東京の土地の値段でアメリカ全土が買えると言われいた時期もありました。)
そんなバッグを持ちそんなモテ服を着て、天井に大きな空気サーキュレーションのプロペラが回るプールバーやドレスコードまであったマハラジャなどのディスコに出かけるなんていうのが若者の一大ブームとなっていたのです。
深夜終電が終えても繁華街から人が消えず、皆躊躇いもなくタクシーで家路につきました。その為、六本木、西麻布の界隈では明け方3時を過ぎないとタクシーが拾えないのも当たり前でした。
お金が腐るほどある訳ではないのに、何故だかそんなことが出来てしまったのです。
景気の高揚感とは実に不思議なものですね。
1983年、エポックメイキングな年とVOL.12でも触れましたが、インターネットなるものが世の中に出現したのもこの年です。当時、文字図形通信システムというのが出来た!
それまで、ファックスやテレックスというモノしかなかった時代に、「図形が送れるんだって!」と世の中は大騒ぎになっていました。
日本でも任天堂からスーパーファミコンが発売されたのもやはりこの年でした。
83年は、今後に影響を与える様々なこが起きたことに間違いはありません。
85年にはマイクロソフトからOSソフト「Windows」が発売され、これが社会のPC化の始まりとなりました。
86年にはチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こり、被爆国である日本人が改めて原子力の怖さを知った年でもありました。
87年には世界の人口が50億人を超え、中でも中国、インドの人口増加は目を見張る勢いでした。
88年にはイラン・イラク戦争が勃発し、勿論ソビエトも後ろにいますが、アメリカの中東介入がこの後の世界の大きな問題となります。これは余談ですが、この戦争の根源は、アングロサクソンやラテン民族を中心とした白人優位主義を、キリスト教という強大な武器を盾に行われたものだと私は考えています。
世界の警察的なことをいうその裏側に、白人優位主義という根源的な優位性を保とうとする遺伝子レベルの不必要なプライドが引き起こしたものではないでしょうか?
自分たち以外が、世界に対して大きな力を有することを感情レベルで許せなかったのではないか?そんな気がしてなりません。
戦争の様子がテレビ中継という形で私たちのところに届きました。この事が却って戦争という悲惨な実情から現実味を奪っていったような気もしました。それは映画よりも真実味がなく、夜の戦場をやや遠景から捉え、砲弾が花火の様に飛び交う様が印象に残り、その映像からこれで人が死んでいく事を想像で出来なかったのです。
映画であれば、もっとリアルな感じの着弾による音、爆風、破片、逃げ惑う人々の息使いなどを恐怖感情として表現出来ますが、報道のそれは安全と思われる地帯からの当に傍観でありました。当然のことなのですが、、、
89年1月7日に昭和天皇が崩御され、平成の時代が始まりました。同年、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツがが統一。今まではこんな歴史的大事件は教科書や活字で読んで知るのが当たり前でしたが、そういった歴史に残る大事件も今後は映像で見る時代になったのだと、当たり前のことなのですが不思議な気持ちになったのを思い出しました。
日本では平成の声を聞いた頃から、そして世界ではベルリンの壁が崩壊したその当時、私たちは気付いていませんでしたが、バブル崩壊の秒読みに入っていたのかも知れません。
それはまるで地震のメカニズムの様に地殻プレートのもぐり込みによる地盤の歪の様に、人が作り上げた実体のない、あたかも妄想ともいうべき好景気の歪が揺り戻しの様にはじけ、それまでの世の中の仕組みやシステム、関係性といったものをひっくり返して行ったのです。
間違った意味ではありますが「オタク」という言葉や存在を世間に知らしめたのは宮崎勉による幼女連続殺人事件でありました。
「オタク」とは元々、中森明夫がコミックマーケットに集まる人たちを蔑視した呼称として用いたことから始まったようですが、まだ日本の隅々までは浸透した概念や言葉とはなっていませんでした。
それが宮崎勉事件以来マスコミの報道によって広く認知される言葉となりました。
宮崎の自室には夥しい量のビデオテープのコレクションがあり、それを報道ニュース等で見た私たちの度肝を抜きました。
それまでも、コレクターやマニアと呼ばれる人たちは居ましたが、その集め方と、対象物がその当時異常であったと誰の目にも映ったのです。
そして、解離性同一性障害という聞きなれない病名を耳にしたのもこの事件の裁判が初めてであったと記憶しています。
「オタク」イコール気持ち悪い、異常、怖いなどの印象が日本人に植え付けられていきました。これは、社交的でない内向的な性格のマニアやコレクターに対するマイノリティー化を加速させたのも事実だと思います。
しかし90年代に入ると、その定義づけは少しづつ変化していきました。それまでの常識的な年齢の興味の対象とは言えない何かに突出して詳しい人であったり、コレクションを行う人という感じになって行ったように思います。
この、社交的ではない専門性の高い人たちの手によって、社会は大転換していくことをこの当時の私たちには気付く由もありませんでした。そして経済的優位性という意味でも、システムを変えた彼らの手の中に入って行くことになったのです。
「五感を研ぎ澄ます」「百聞は一見に如かず」というこれまでの常識は全てではありませんが、その言葉のの持つ本質的なリアルに味わうことの重要性に対し必要性を持たなくなって行きました。
これは人と人とが、面と向かって係わり合うことに対するこに対するアンチテーゼであり、マイノリティーのレッテルを張られた人達の逆襲の様でもありましたし、それは現在進行形の状況です。
それまでの社会では、社交性というものに対する評価は高く、社交性の低い人たちに社交性を身に付けないといけないという風潮さえありました。
しかしこのマイノリティーで位置づけられていた人たち中心となりITというジャンルを発展させて、何時しか彼らの考え方や主張が世の中の正義となって行ったのです。経済の中心を握られた訳ですから、これはもうニューマジョリティーの誕生です。
「普通さ―」
という普通の定義が激変したのです。
これには、日本のマスコミも大きく一役買っています。
マスコミは新しい考え方や発想に極めて弱く、
「新しい考え=正義」
的なプロパガンダを行う事を何のエクスキューズも行なわずにいかに早くそれを発信するかに懸けているところがあります。
それに対し異議を唱えようモノならば、やれ古いだの前時代的だのと一蹴するのです。
そしてマスコミにに登場する評論家や文化人たちは新しい考え方をいち早く見つけそれを肯定することによって、自分たちの存在意義を世間にアピールし、先進的な考え方の持ち主とマスコミはこぞって彼らを持ち上げる連鎖は未だに止まりません。
たとえて言うならば、現在の極めて行き過ぎ感のある「ハラスメント」の定義やそれをあおる報道です。
元来ハラスメントとは、アメリカ社会の様な人種的・宗教的・性別的な差別やから弱者、マイノリティーを守るための対抗手段であったりしたのだと思います。
つまり、弱者の対抗手段としてのメゾッドであったように思いますが、現代日本のハラスメントに対するか感覚や主張は少し疑問符が付くと私は思っています。
こんな人間がいたとします。
彼は元来自立心を持たない質で、何事につけても人の所為、自分は努力しなくて出来ない事があればそれが出来ない理由を自分以外に見つけることで生きている。
頭が悪い訳でもなく、寧ろ少しずる賢い彼は、会社に入りああだこうだ理屈をつけて出来るだけ楽をしようとしか思わない。仕事に失敗しても上司の所為。上司に怒られればパワハラと会社に訴える。
人を育てるのに、その人物に対する注意喚起や指導はある程度必要でありますし、人と人が係り合うのに、個と個のぶつかり合いはあって当たり前です
かといって、上司がどんな叱責をしていいとは思いませんし、そこには育って欲しいという愛情がベースにあるべきです。理不尽なものはいけません。
ハラスメントは受けた側がそう思ったらそれはハラスメントだということが真しやかに人々の口から出ますが、果たしてそうなのでしょうか?
たとえばそんな彼がずる賢く立ち回り、上司を陥れることなどは、現代日本では容易いことかも知れません。
私は、どちらがどうというのではありません。世の中には様々な年代、人間性、能力、人種、宗教、貧富、生活環境、国家環境、気候と様々な違いがあります。
それどころか、家庭の一つ一つに違いがあります。
大切なことは、一人一人が個として一人で立つことだと思います。先ず自分を個として認め他人を個として認める事から始めればよいのではないでしょうか?
二次元的世界やIT的コミュニケーションが悪い訳ではありません。それによる世界を超えた繋がりは従来では考えられなかったことですし、コンピューターの登場により仕事の処理速度や正確性は格段に進歩しました。そしてデータの分析、仮説に対する実証、検証にも大きな恩恵をもたらしました。
しかしながら、旧来の五感を使う生き方が否定されてはいけないと思うのです。
触らなければ分からないものがあります。その日の気温、湿度、天候、その日の体調、気分、匂い、光、声を含めた音、そのすべてが情報でありそれはその時にあります。
いがみ合っていた人たちが、ある瞬間わだかまりの心が溶け、仲良くなることがあるように。その瞬間を味わうためにはその場で共有するすべての空気感、向かい合った距離感、対話、声の強弱、表情、視線、そしてそれらの間合い。そんなことが必要です。その場をリアルに共有することが。
五感の持つリアルを失ってはいけませんし、3次元で係り合うことを嫌ってもいけないと思うのです。
一つだけ言えることは、人は一人では生きていけないという事です。
煩わしさは、確かにあります。
違う考えの人間と係り合うのは、煩わしくもありまし新鮮でもあります。新しという事は何かを捨て去る事でもありますし、再確認することでもあります。そして全てが正しい訳でもありませんし間違っているわけでもありません。
他者の良いところを見て暮らす。自分に起こったことは良くも悪くも自分。それくらいの確固たる個を持って立つことが今の日本人に必要な事ではないかとも思うのです。
自分の足で立ちフラットに生きる。難しい事かも分かりませんが、良いドラマはいつもそれを教えてくれている気がしてなりません。
多くの事に興味を持ち、それを知っていくことで、知らなかった自分と知った自分の違いを面白がり、他者と係わり合い良きところを見つけて学び、心あるメッセージを真摯に受け止めて暮らしていけたら、笑顔の多い人生になりそうですね。
それが人でもモノでも同じですが、知りたいという想いこそが、愛情の根源ではないかと私は思っています。
好きな人やモノの事は知りたいですし、そうでもない人やモノの事は知りたくもないですよね。ですから、好きなものが多いほど、楽しい人生の気がします。
マスコミやテレビ報道、ワイドショーが何の責任も持たずに「新しいは正しい」を垂れ流しているのに対して、ドラマは少し立ち止まってその時代のはらむ問題点に対し、時には問題提起をしていきます。
83年のTBS金ドラ3作などは、その当時確かに時代を先導しましたが、浮かれていた私たちにある種大切なメッセージを送っていたように思うのです。
優れたドラマ作りは、単体の事件や事象をただそれだけについて考えるのではなく、街・住居・隣人・友人・会社仲間・知人・ファッション・音楽・仕事・社会現象・世界情勢・経済環境などなど、そのすべてを通してい「今」を見つめているのだと思います。
この問題とあの問題は一見関係ない様に見えるものが実は繋がっていたというような、複雑に出来上がった「今」というものを見つめ続けたその総合的な感覚で捉えて行くので、テレビドラマと言って決して馬鹿にしてはいけない深いモノになって行くのだと、私は考えています。
色々と書かせて頂きましたが、こんな事が世の中のベースとなった80年代という事を踏まえて、次回は80年代中盤から後半にかけてのドラマについて書いていきたいと思います。
~つづく~
1980年代序盤日本はバブルへの入口、そして中盤から後半はその真っ只中に突入して行きました。
80年にはポカリスエットが発売になり、水に近いモノを買うという習慣がなかった日本人には酷く新鮮であるとともに、水みたいなものをコーラと同じ値段で買うという事の戸惑いがありました。
しかし、時代をリードするオシャレ派の人たちには人気があり当時流行っていたテニスサークルなどで徐々に人気が出て来て、ポカリスエットを買うことがちょっとオシャレな感じになりました。今考えると不思議なのですが、そうだったのですから仕方がありません。
そしてファッションに於いては、70年代にお洒落な若者たちから支持を得た所謂DCブランドブームが到来します。
「コム・デ・ギャルソン」「ヨージ・ヤマモト」「イッセー・ミヤケ」などの『モードまっしぐらタイプ』、「BIGI」「Y's」「メンズ・バツ」「JUN」「renoma」「アルファキュービック」などの『もてたいタイプ』などが存在し、多くのブランドが、原宿、表参道を中心に大ヒットしました。
これより若干先んじて、「グッチ」「ルイ・ヴィトン」「シャネル」などの高級バッグやセカンドバッグ(その当時は男性も挙って持ち歩きました)を学生から大人までが持ち歩くという飛んでもないことが始まっていました。勿論「アルマーニ」「エルメス」などの超高級ファッションも空前のヒットであったのですが、それはあまりに高すぎて、マジョリティーとはなっていなかったように思います。
当時、女子学生や若いOL達でそれらの「グッチ」「ヴィトン」のバッグやお財布を1つは持っているのが当たり前になっていたのです。
ヴィトンに手の届かない学生の間では「renoma」のバッグだったような気がします。
かく言う私も学生の分際で、当時の彼女(今の奥さん)の誕生日にはヴィトンの財布やセカンドバッグ、流行歌になったルビーの指輪などをプレゼントしたりしていましたが、それが特別な事ではなかったのです。
日本人観光客は、ヨーロッパのブランドショップに今の中国人観光客の様に群がり、世界から下品だと批判を受けていたのを思い出します。
中国人観光客についてあれこれ言われますが、40年前の日本人も全く同じだったのです。
(まあ、何しろ日本の地価は留まるところを知らない高騰を続け、遂には東京の土地の値段でアメリカ全土が買えると言われいた時期もありました。)
そんなバッグを持ちそんなモテ服を着て、天井に大きな空気サーキュレーションのプロペラが回るプールバーやドレスコードまであったマハラジャなどのディスコに出かけるなんていうのが若者の一大ブームとなっていたのです。
深夜終電が終えても繁華街から人が消えず、皆躊躇いもなくタクシーで家路につきました。その為、六本木、西麻布の界隈では明け方3時を過ぎないとタクシーが拾えないのも当たり前でした。
お金が腐るほどある訳ではないのに、何故だかそんなことが出来てしまったのです。
景気の高揚感とは実に不思議なものですね。
1983年、エポックメイキングな年とVOL.12でも触れましたが、インターネットなるものが世の中に出現したのもこの年です。当時、文字図形通信システムというのが出来た!
それまで、ファックスやテレックスというモノしかなかった時代に、「図形が送れるんだって!」と世の中は大騒ぎになっていました。
日本でも任天堂からスーパーファミコンが発売されたのもやはりこの年でした。
83年は、今後に影響を与える様々なこが起きたことに間違いはありません。
85年にはマイクロソフトからOSソフト「Windows」が発売され、これが社会のPC化の始まりとなりました。
86年にはチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こり、被爆国である日本人が改めて原子力の怖さを知った年でもありました。
87年には世界の人口が50億人を超え、中でも中国、インドの人口増加は目を見張る勢いでした。
88年にはイラン・イラク戦争が勃発し、勿論ソビエトも後ろにいますが、アメリカの中東介入がこの後の世界の大きな問題となります。これは余談ですが、この戦争の根源は、アングロサクソンやラテン民族を中心とした白人優位主義を、キリスト教という強大な武器を盾に行われたものだと私は考えています。
世界の警察的なことをいうその裏側に、白人優位主義という根源的な優位性を保とうとする遺伝子レベルの不必要なプライドが引き起こしたものではないでしょうか?
自分たち以外が、世界に対して大きな力を有することを感情レベルで許せなかったのではないか?そんな気がしてなりません。
戦争の様子がテレビ中継という形で私たちのところに届きました。この事が却って戦争という悲惨な実情から現実味を奪っていったような気もしました。それは映画よりも真実味がなく、夜の戦場をやや遠景から捉え、砲弾が花火の様に飛び交う様が印象に残り、その映像からこれで人が死んでいく事を想像で出来なかったのです。
映画であれば、もっとリアルな感じの着弾による音、爆風、破片、逃げ惑う人々の息使いなどを恐怖感情として表現出来ますが、報道のそれは安全と思われる地帯からの当に傍観でありました。当然のことなのですが、、、
89年1月7日に昭和天皇が崩御され、平成の時代が始まりました。同年、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツがが統一。今まではこんな歴史的大事件は教科書や活字で読んで知るのが当たり前でしたが、そういった歴史に残る大事件も今後は映像で見る時代になったのだと、当たり前のことなのですが不思議な気持ちになったのを思い出しました。
日本では平成の声を聞いた頃から、そして世界ではベルリンの壁が崩壊したその当時、私たちは気付いていませんでしたが、バブル崩壊の秒読みに入っていたのかも知れません。
それはまるで地震のメカニズムの様に地殻プレートのもぐり込みによる地盤の歪の様に、人が作り上げた実体のない、あたかも妄想ともいうべき好景気の歪が揺り戻しの様にはじけ、それまでの世の中の仕組みやシステム、関係性といったものをひっくり返して行ったのです。
間違った意味ではありますが「オタク」という言葉や存在を世間に知らしめたのは宮崎勉による幼女連続殺人事件でありました。
「オタク」とは元々、中森明夫がコミックマーケットに集まる人たちを蔑視した呼称として用いたことから始まったようですが、まだ日本の隅々までは浸透した概念や言葉とはなっていませんでした。
それが宮崎勉事件以来マスコミの報道によって広く認知される言葉となりました。
宮崎の自室には夥しい量のビデオテープのコレクションがあり、それを報道ニュース等で見た私たちの度肝を抜きました。
それまでも、コレクターやマニアと呼ばれる人たちは居ましたが、その集め方と、対象物がその当時異常であったと誰の目にも映ったのです。
そして、解離性同一性障害という聞きなれない病名を耳にしたのもこの事件の裁判が初めてであったと記憶しています。
「オタク」イコール気持ち悪い、異常、怖いなどの印象が日本人に植え付けられていきました。これは、社交的でない内向的な性格のマニアやコレクターに対するマイノリティー化を加速させたのも事実だと思います。
しかし90年代に入ると、その定義づけは少しづつ変化していきました。それまでの常識的な年齢の興味の対象とは言えない何かに突出して詳しい人であったり、コレクションを行う人という感じになって行ったように思います。
この、社交的ではない専門性の高い人たちの手によって、社会は大転換していくことをこの当時の私たちには気付く由もありませんでした。そして経済的優位性という意味でも、システムを変えた彼らの手の中に入って行くことになったのです。
「五感を研ぎ澄ます」「百聞は一見に如かず」というこれまでの常識は全てではありませんが、その言葉のの持つ本質的なリアルに味わうことの重要性に対し必要性を持たなくなって行きました。
これは人と人とが、面と向かって係わり合うことに対するこに対するアンチテーゼであり、マイノリティーのレッテルを張られた人達の逆襲の様でもありましたし、それは現在進行形の状況です。
それまでの社会では、社交性というものに対する評価は高く、社交性の低い人たちに社交性を身に付けないといけないという風潮さえありました。
しかしこのマイノリティーで位置づけられていた人たち中心となりITというジャンルを発展させて、何時しか彼らの考え方や主張が世の中の正義となって行ったのです。経済の中心を握られた訳ですから、これはもうニューマジョリティーの誕生です。
「普通さ―」
という普通の定義が激変したのです。
これには、日本のマスコミも大きく一役買っています。
マスコミは新しい考え方や発想に極めて弱く、
「新しい考え=正義」
的なプロパガンダを行う事を何のエクスキューズも行なわずにいかに早くそれを発信するかに懸けているところがあります。
それに対し異議を唱えようモノならば、やれ古いだの前時代的だのと一蹴するのです。
そしてマスコミにに登場する評論家や文化人たちは新しい考え方をいち早く見つけそれを肯定することによって、自分たちの存在意義を世間にアピールし、先進的な考え方の持ち主とマスコミはこぞって彼らを持ち上げる連鎖は未だに止まりません。
たとえて言うならば、現在の極めて行き過ぎ感のある「ハラスメント」の定義やそれをあおる報道です。
元来ハラスメントとは、アメリカ社会の様な人種的・宗教的・性別的な差別やから弱者、マイノリティーを守るための対抗手段であったりしたのだと思います。
つまり、弱者の対抗手段としてのメゾッドであったように思いますが、現代日本のハラスメントに対するか感覚や主張は少し疑問符が付くと私は思っています。
こんな人間がいたとします。
彼は元来自立心を持たない質で、何事につけても人の所為、自分は努力しなくて出来ない事があればそれが出来ない理由を自分以外に見つけることで生きている。
頭が悪い訳でもなく、寧ろ少しずる賢い彼は、会社に入りああだこうだ理屈をつけて出来るだけ楽をしようとしか思わない。仕事に失敗しても上司の所為。上司に怒られればパワハラと会社に訴える。
人を育てるのに、その人物に対する注意喚起や指導はある程度必要でありますし、人と人が係り合うのに、個と個のぶつかり合いはあって当たり前です
かといって、上司がどんな叱責をしていいとは思いませんし、そこには育って欲しいという愛情がベースにあるべきです。理不尽なものはいけません。
ハラスメントは受けた側がそう思ったらそれはハラスメントだということが真しやかに人々の口から出ますが、果たしてそうなのでしょうか?
たとえばそんな彼がずる賢く立ち回り、上司を陥れることなどは、現代日本では容易いことかも知れません。
私は、どちらがどうというのではありません。世の中には様々な年代、人間性、能力、人種、宗教、貧富、生活環境、国家環境、気候と様々な違いがあります。
それどころか、家庭の一つ一つに違いがあります。
大切なことは、一人一人が個として一人で立つことだと思います。先ず自分を個として認め他人を個として認める事から始めればよいのではないでしょうか?
二次元的世界やIT的コミュニケーションが悪い訳ではありません。それによる世界を超えた繋がりは従来では考えられなかったことですし、コンピューターの登場により仕事の処理速度や正確性は格段に進歩しました。そしてデータの分析、仮説に対する実証、検証にも大きな恩恵をもたらしました。
しかしながら、旧来の五感を使う生き方が否定されてはいけないと思うのです。
触らなければ分からないものがあります。その日の気温、湿度、天候、その日の体調、気分、匂い、光、声を含めた音、そのすべてが情報でありそれはその時にあります。
いがみ合っていた人たちが、ある瞬間わだかまりの心が溶け、仲良くなることがあるように。その瞬間を味わうためにはその場で共有するすべての空気感、向かい合った距離感、対話、声の強弱、表情、視線、そしてそれらの間合い。そんなことが必要です。その場をリアルに共有することが。
五感の持つリアルを失ってはいけませんし、3次元で係り合うことを嫌ってもいけないと思うのです。
一つだけ言えることは、人は一人では生きていけないという事です。
煩わしさは、確かにあります。
違う考えの人間と係り合うのは、煩わしくもありまし新鮮でもあります。新しという事は何かを捨て去る事でもありますし、再確認することでもあります。そして全てが正しい訳でもありませんし間違っているわけでもありません。
他者の良いところを見て暮らす。自分に起こったことは良くも悪くも自分。それくらいの確固たる個を持って立つことが今の日本人に必要な事ではないかとも思うのです。
自分の足で立ちフラットに生きる。難しい事かも分かりませんが、良いドラマはいつもそれを教えてくれている気がしてなりません。
多くの事に興味を持ち、それを知っていくことで、知らなかった自分と知った自分の違いを面白がり、他者と係わり合い良きところを見つけて学び、心あるメッセージを真摯に受け止めて暮らしていけたら、笑顔の多い人生になりそうですね。
それが人でもモノでも同じですが、知りたいという想いこそが、愛情の根源ではないかと私は思っています。
好きな人やモノの事は知りたいですし、そうでもない人やモノの事は知りたくもないですよね。ですから、好きなものが多いほど、楽しい人生の気がします。
マスコミやテレビ報道、ワイドショーが何の責任も持たずに「新しいは正しい」を垂れ流しているのに対して、ドラマは少し立ち止まってその時代のはらむ問題点に対し、時には問題提起をしていきます。
83年のTBS金ドラ3作などは、その当時確かに時代を先導しましたが、浮かれていた私たちにある種大切なメッセージを送っていたように思うのです。
優れたドラマ作りは、単体の事件や事象をただそれだけについて考えるのではなく、街・住居・隣人・友人・会社仲間・知人・ファッション・音楽・仕事・社会現象・世界情勢・経済環境などなど、そのすべてを通してい「今」を見つめているのだと思います。
この問題とあの問題は一見関係ない様に見えるものが実は繋がっていたというような、複雑に出来上がった「今」というものを見つめ続けたその総合的な感覚で捉えて行くので、テレビドラマと言って決して馬鹿にしてはいけない深いモノになって行くのだと、私は考えています。
色々と書かせて頂きましたが、こんな事が世の中のベースとなった80年代という事を踏まえて、次回は80年代中盤から後半にかけてのドラマについて書いていきたいと思います。
~つづく~
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