「私の好きなモノそして人。」~テレビドラマって観ますか?~VOL.1「1960年代という時代、そしてテレビ」


皆さん、ご自分でこれが大好きというものが幾つかおありだと思います。
何を置いてもというような特別なものでなくても、

「これは好きだなー」

と思うモノや人が幾つか何人か浮かぶと思います。
好きなモノや人(役者さんやアーティストさん)は基本的にそれが好きな人を幸せにしてくれますよね!?

私の場合、これが少々多めです。

靴・鞄・時計・本(小説、50歳くらいまで))・野球観戦(テレビで・20代半ばまで)・映画(20代半ばまで)・車・お笑い・テレビドラマ・音楽・オーディオ。こんなところでしょうか。

挙げてみると、昭和生まれの男子が好きそうなモノは大体好きっていうことです。
私の生まれた1960年は、今では幻の言葉となってしまった高度成長期真っただ中です。家電の三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機を揃えることが先ずは豊かな生活の目標だったりした時代です。(恥ずかしながら、即位の礼で三種の神器の本当は何かを初めてちゃんと知りました)
モノを得ることが、とても幸せな時代でした。

1960年代、先ずは冷蔵庫、洗濯機が家庭に必需品の家電として、各家庭に登場しました。
冷蔵庫は、冷凍室が別にあるものではなく、ワンドアの中の一番上に鉄製(アルミ製?)の枠があり、その別棚に製氷皿に水を溜め四角い氷を作るものしかありませんでした。当然その周りには白い分厚い霜が付き、製氷室の周りのものは少し凍ってしまうのが当たり前でありました。
製氷皿をそこから取り出し、端と端を掴んで思いっきり捻って氷を取り出したりする訳です。
製氷皿に引っ付いている氷は綺麗に四角く取れる訳もなく、結構粉々になりました、
ちょっと知恵がついて、製氷皿にお水を少しかけて溶かしてから捻るなんてこともしていました。そうすると案外四角い氷が取れたりします。
今では、製氷機が付いていてガラガラという音とともに、四角い氷が勝手にバラバラで出来ているのが当たり前になっていますが、実は私はこの製氷システムで出来上がった氷を白いスコップで掬うときに未だに少し嬉しくなります。
毎回少しだけ「スゲー!」と思ってしまいます。

洗濯機は勿論一層式です。乾燥システムなどない一層式で、本体の側面上方に2つのロールが付いており、それはパチッとはまるハンドルで回すのですが、そこに洗い終わった洗濯物を差し込みグルグル回して熨斗烏賊のようになった洗濯物が出てくる、そんな寸法です。
搾り機という機能です。

1960年代の日本はそんな時代でした。当に昭和です。

そんな時代に、家庭に登場した娯楽の頂点と言えるのは、やはりテレビでした。
1964年に開催された東京オリンピックを見る為に、テレビは急速に各家庭に登場することになります。
勿論白黒で、どうでしょう18インチくらいのものが主流だったのではないかと記憶しています。

テレビの映像で私の覚えている一番古い記憶は、マラソンでアベベが走っている映像だと思います。

「この人は裸足で走るんだよ!」
父からそんなことを言葉を何度も聞かされておりました。
そんな訳で私が覚えているアベベ選手の記憶の中の映像は、裸足で甲州街道を走っているものでしたが、東京オリンピックでのアベベ選手の写真を見るとちゃんとシューズを履いているではありませんか!?
私の観たアベベ選手の映像は、私の中で作り上げられた記憶だったのかも知れません。


そして余談になりますが、人種が白人以外にもいることを初めて知った瞬間が東京オリンピックだったかも知れません。
何せ外人というのは全て白人で、それは皆アメリカ人だと思っていたのですから。

 そんな中、テレビという本当に魔法の様な箱の中では、相撲をやっていたり、漫才をやっていたり、バラエティーとも歌番組ともつかない番組をやっていたり、ドラマをやっていたりしました。

60年代に普及したテレビは、50cmくらいの丸くてクロっぽい足が4本、その上に四角い箱があり、奥行きもかなりあるその箱の正面にはブラウン管の画面が、そしてその右側には上から、ダイアル式チャンネル(1~12)、その下にボリュームのツマミ、その下にはスピーカーがある、そんな形をしていました。

勿論白黒です。リモコンなどは想像もしたことはありません。

テレビは家の家宝的なもので、そのブラウン管の画面には大そうな布が掛けられ、仏壇と同じくらい大切にされておりました。

私の住まいは東京でしたので、使えるチャンネルは1(NHK),3(NHK教育テレビ)、4(日本テレビ)、6(TBS)、8(フジテレビ)、10(NET)、12(東京12チャンネル)の7つです。
夕飯を終えると、テレビの前に成員集合して家族皆で有難くテレビを観ていました。
父親は相撲以外のチャンネル権は私に与えてくれていたようです。
 当時、テレビを観ながら食事をするのは行儀が悪いということで、テレビを観るのは必ず食事以外の時だったことも当時の流れです。

不思議な時代です。

そんな魔法の箱の中で繰り広げられるテレビ番組の中で、子供であった私にとって欠かせなかったのは、何と言ってもテレビ漫画でありました。(その当時はアニメなどという言葉はまだありませんでした)

当時夢中になって観ていたテレビ漫画は、これまた何と言っても「鉄人28号」であります。

夢中でした!


正太郎少年が操る鉄人28号には、私の夢そのものが詰まっていたように思います。
少年である正太郎が、僅か2つしかないレバーのリモコンであんな大きなロボットをまるで自分の分身の様に操るのですから、もう堪らない訳です。

当然、番組冒頭に主題歌が聞こえてて来ます。否が応でもこの主題歌に乗せて心も盛り上がって行きました。
そして主題歌の最後にスポンサーの名がそのメロディーに乗って何度も連呼されるので、そのスポンサー名もセットで主題歌を覚えたものです。
「鉄人28号」の場合はこうです。

夜―の街にガオー、夜―のハイウェイにガオー、、、、
鉄人、鉄人どこへ行くー、
ビューんと飛んでく鉄人、28号―、、、、
グリコ、グリコ、グリコーー!

さあ、始まります。ドキドキは抑えられません。

そんなこんなで、私は約4年余り、描く絵は全て鉄人28号。
毎日毎日、鉄人を描き続けました。

後年聞くことになるのですが、両親はこんな私の様を見て、かなり心配していた様です。
不思議なことに、同時期に手塚治の「アトム」もやっていたと思われ、確実に見ていたのですが、私がアトムを描くことはなかったのです。幼稚園児の私には少し高度だったのかも知れません。

それから、魅力的なテレビ漫画は次々と現れました。
「エイトマン」
「宇宙少年ソラン」
「スーパージェッター」

テレビ漫画と並行して子供向けの実写番組も多くありました。


「月光仮面」はもう少し古いので、記憶はありますがリアルではありません。

当時は、録画などというものはありませんので、一回一回が勝負です。
何かの都合で、一回でも見られないと、悔しくて悔しくて泣いたものです。当に一期一会的にテレビ番組を観ていた訳です。

そんな時代でしたので、車というものはとても贅沢なものでありました。
私は、港区の三田にある寺で育ちました。

60年以上前ですが、私の父は慶応の通信大学に通う九州出身の学生でありました。
その当時、寺では何人かの苦学生を裏手に下宿させており、その中の一人が私の父親だった訳です。結果的にその寺の長女と結婚したのが私の父でありました。

寺の長女と結婚した父親は、実家である九州の山を売ったお金で寺の裏手に、アパート式の家を建てました。

その大半を近所のホテルの従業員の寮として貸して、一部を自分たちの住まいとして使っておりました。

父親は、その収入を糧に司法試験の勉強に励んでいたのです。
(その後も残念ながら司法試験に合格することはなく、不動産屋を開業するに至りました。)

その寺とは家自体が繋がっており、行き来は自由であっため、私は大半の時間をその寺で過ごしました。その寺には母方の祖父・祖母そして母親の弟である長男の叔父とその奥さん夫婦がおりました。
当時叔父夫婦にはまだ子供がおらず、甥である私をたいそう可愛がってくれました。
その叔父が、当時かなりのぜいたく品であった車を持っており、その一台目はニッサンのブルーバードだったと思います。
それこそスカイブルー色のブルーバードで、幼かった私には物凄く魅力的なモノでありました。

叔父は車で出かけるときに、本当にいつも私を連れて行ってくれました。
私は、ブルーバードに乗せてもらうのが楽しみで楽しみで、乗せてもらうのが嬉しくて嬉しくて堪りませんでした。
小さい私には、車はとても大きなマシーンで、それに乗ってどこかに行くということが、何だか無性にイカシタことだったのです。
イメージ的には、ブルーバードは私にとって鉄人28で、正太郎君は叔父だったのかも知れません。

その後、良く叔父に聞かされる話があります。

私の育った寺は、三田の聖坂という名前の坂を上り切ったところにあり、寺への入り口は右側にあり、今度は少し坂を下った突き当りにあります。

寺を出るときには、その坂を必ず上ることになります。。僅か30mくらいの坂なのですが、そこを上りきる頃にはもう私は寝ていたそうです。

鉄人の夢でも見ていたのかも知れません。

その後叔父は、折に触れてはその話を嬉しそうに何度も私や私の母にしてくれました。

その叔父も、数年前に亡くなってしまいました。私の中のどこかヒーローの叔父はもういません。




~つづく~


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